昭和42年03月21日 朝の御理解



 お道の信心はどこまでも、やはりお道をたてられたところの、教祖の神様のご信心に基づかせて頂き、教祖の神様の御あられ方というものが、そのままお道の信心の建前とならなければならない。又私共の信心生活の、それが基本とも目指しともならなければならんと思うのです。皆さんもご承知のように教祖の神様という方は、生れついての実意の権化のようなお方であったと。「実意丁寧神信心」ということを申します。
 本当に実丁寧神信心をもって天地の親神様のご信用を受けられたのでございますが、そういうあり方になりませんと、どうしてもおかげがお道流になって参りません。これはまぁ他の宗旨宗派を見ましても、同じような事が言えれる訳ですね。例えば仏教の日蓮宗なんか、日蓮という人は、ああいう非常に激しい時の政府に反抗されたり、他の宗旨宗派を、もう罵倒すると言うかね。
 もうとにかく悪口を言われた。ですからそう言わなければ、後々の者まで助からないというのが、現在の日蓮宗じゃないかとこう思うのです。それが日蓮宗の信心だとさえ言っておる訳ですね。例えば現在の創価学会なんかは、他の宗旨宗派は、まるきり邪教のように言う訳なんです。その宗派なんかはいわゆるそれを攻撃したり、それを汚く悪く言わなければ信心じゃないように言われておる訳です。
 又それでなからなきゃ、おかげは受けられんという風に言うそうでございますね。もう天理教なんかでも、やっぱり、そうですね。教祖である中山みきという方が、非常に強引なお導きと言うかね。自分が有難い為に人にも非常にその強引であられたと。強引と言うたら悪いですけれども。それだけ積極的で有られたという訳なんです。ですから天理教あたりの信心は、非常に積極的なんです。
 日蓮宗が人の悪口人の宗旨宗派を悪口を言わなければ助からんと言う様な建前が、現在の、それは私はそれは日蓮宗のことを詳しくも知りませんけれども、確かにそう言う様な所が御座いますようです。天理教の教祖の場合でもそれが言えます。非常にこの積極的な陽気暮らと言うことを申します。ですからそのご信心を頂く者が、そういう教祖の在られ方というものに、やはり神習う見習ろうて。
 それを宗教のひとつの伝統ともしておるのでございます。ようにお道の信心も教祖の神様の、所謂御あられ方というものを私達の有り方として、行かなければならんのは当然の事。ところがそのお道の信心には非常にその難しさがある。天理教の積極的な在り方に対してお道の信心は非制こ消極的かのように見えるという事でございます。打ち向かう者には負けて時節に任せ、と言う様な御教えなんかはそれでございますよね。
 例えば、天理教あたりは、布教所でも建てる前には、その前に、自分が一生懸命お導きに回って、そこに幾らがしかの信者が出来たら、そこに布教所を建てると言ったような有り方なんです。金光様のご信心などは、その布教所でも、本当の荒れ地布教と言う事を申しますが。とにかく傘一本で開けれ道だと言うのが、お道の信心の建前なんです。この方の道は、傘一本で開ける道なんだと。
 しかも傘一本で開いて、そこに座れば立てればです。もうそこから動いてはならんという有り方なんです。言わば「門外不出」なんです。信者を導いて歩くということも、ようしません。例えば信心奉仕いわゆる、御結界の奉仕をさせて頂いて、じっとその、お参りをしてくる人を待つというのですから実にその、消極的かのように見えるのですけれども。そこにはですね、もう、命が掛けられておるという事です。
 ここにこうやって座らせて頂いて、そして、お参りがないならば、もうそれでも良いのであり。お供えがないならば、それで良いのである。そのかわりに、一度、ここに救いを求めて、お導きを頂き、御神縁を頂いた限り、どのようなことがあって、もおかげを受けて貰わなければならないのでございます。難儀な問題を神に取り次ぎ、神の願いを氏子に、いよいよ取り次がせて。
 真の信心をさせるという事に、一生懸命になるというのが、お道の信心ですから。いうならば、お道の信心は、消極的かのように見えて、もう超、積極的だと言う事が言える。命がけだと。見かけには、一つも人には出会わない。ちゃんと家に居る。ですから、そこんところを、ちょっと間違えますとですね。その、超積極的が、非常に、なんと申しましょうか、不精なあり方とでも申しましょうかね。
 まぁ例えて、申しますならばです。そこにお導きして廻る事も何も要らん。ちゃっと、お広前におれば良い。だから、言うならば、寝たり転がりしておっても良いようなもんである。居りさえすりゃ良いんである。本当に命懸けで、御結界を死守すると。御結界を守りぬかして頂く。神前奉仕に、いよいよ、力を入れさせて頂くという。そこんところに、思いをおいていけば良いのですけれども。
 そこんところがごまかせば、どんなんでもごまかせるのでございます。そこんところに私はお道の信心のいよいよ、難しさを感じる訳でございます。教祖の神様のお伝記の中に、この方はお上に対して実意を貫き候。と言う様な事が教祖の御理解に中にございますですね。お上に対してでもお上に実意を貫いたということが書いてございます。例えば拝む事はならんと言われれば、もう絶対に拝まんという生き方。
 あまりに正直にする事をなさいますから、まぁ村の今で言うなら部落長のような人でしょうね。わざわざ教祖の元へ尋ねてお上では、あぁ言うておられるけれども、内々でなら、拝んでも良いという達しがあっておるから、内々でなら拝んでも良いではないかと、言うてわざわざ言いに来ておられます。けれども正式にお上からお許しがなからなければ、拝まんと言うて、そこを立て貫いておられるようなところを。
 お上に対し実意を立てつらぬき候。と言うことではなかろうかとこう思うです。一時が万事にそういう御在り方なんである。昨夜菊栄会、秋永先生と総代さんの高芝さんと交えまして4月16日に迎えさして貰うところの御大祭、併せて落成式と言う様な事についての、大体の案だけを練っておこうというので、ちょうど今朝の二時過まで、熱心にお話しがございました。
 私も入ってくれと言う事でございましたから私も一緒にお付き合わさせて頂いたんですけれども。例えて言うならば、ここはまだ、教会ではないのです。金光教合楽布教所と言うことになっておるんです。それに、この頃から、奉祭式のご案内が、合楽教会の名をもって通知を出した訳なんです。こちらなんかは、もうそこを、うっかりしたことなんですけレども。一枚のハガキが、住所が分からずに帰って来ておる。
 帰って来たらここに帰って来たら良かったんですけれども、親教会に帰って行ってる訳なんです。善導寺の方へ行ってる訳なんです。ここが善導寺町になっとるもんですから、善導寺町の合楽教会と確か書いてあったんでしょう。ですから善導寺の教会に行っておる。それを親先生がご覧になってこりゃやり損なうたなと。まぁだ教会でもないのに教会と書いちゃいけなかったと言うて、そのまあ心配して下さったんですから。
 そのことを夕べ私申しましたら、はぁそげなことは問題じゃないですが。どうせ教会になるのじゃからという様な行き方が、椛目の中にあるということですね。私今朝からお夢を頂いておった。それは私と秋永先生とそれから文男先生と三人で御本部参拝をしておるのである。ところがどうも御本部の駅の近くで汽車が止まったんです。秋永先生が慌て者だもんだもんですからそこで降りてから、外へ出ておる訳なんです。
 そしたら向こうの駅に着いたら、その秋永友良と言う人がタダ乗りして来とると。そしてどこさんかその行ってるんです外へ。構外に出ておるからそれを捕まえんならんと言いよる。その何かマイクか何かで言いよる訳です。それでこりゃ私共同類こうに見られてちゃならんと言うので、私と文男さんは出てはならんところから、こっそり出ておると言うところなんです。
 ところが私共が御本部参拝をして帰らせて頂いたら、帰りの汽車の中で又詮議があっておる訳なんです。それで私の所を調べられた時でも、私共は同じ善導寺町なら善導寺町の駅から乗っておる、同じ連れの切符を持っておりますから。分かっちゃならんと言うので、何とかかんとかそのごまかしてそこを切り抜けようとしておる様なお夢であった。馬鹿らしい話でしょうが。切符を買ってあるんです切符を持っておる。
 ちょっとその早まったり、まあよかよかという様なことでやったりしておる為に、非常に難儀苦労をしておるということでございます。いわゆる実意を立て貫いていなかったという事なんです。椛目の場合そこ十六年間の間にそう言う様な事が非常に多かった。それが非常な誤解を招いたという事、事実がある事でございます。椛目の者は別に汽車賃を払うとるから良いじゃないかと。
 けどもやはりそこにはそこにひとつの約束があって、やは、改札口からあれでハサミを入れて貰わなければ、外にゃ出られないのです。それをそんなことは問題じゃないじゃないかと。切符さえ買うとりゃ良かろうがと。金を払うとるもんじゃから、と言わば言い訳なんですけれども。あれは切符無し無銭乗車をしておるかの様に思われて、難儀をしてきたと言う事なんです。
 そう言う様な所から、私共がここに思わなければならない事は、教祖の神様は、どう言う様なあられ方で、実意丁寧を貫いておいでになられたかとと言う事をです。私共の信心ぶりにしていかなければならない。その信心ぶりがです。ややもすると消極的かのように見えるから、それが消極的になったり。お道の信心は楽な方へ楽な方へと行げば、どんなにでも楽をしても良いと言う様な。
 教えの中にでも例えば、キリスト教の信心をすれば、十戒と言うて十の戒めというものを守らなければならないという事です。仏教今こそはそうではないですけれども、仏教にも、ひとつの五戒と言ったようなものがあって、生臭きを取ってはならないとか。その布教にたずさわる者は、家内を持ってはならないとか、と言ったようなそれこそ厳しい掟というものがあるのです。
 ですから、それを守り抜かなければ、それを、言うなら、はかい僧と言うふうに見られたんですけども。お道の信心にはそれがないです。御神誠と言ったようなものがあるのですけれども、そうしなければ、おかげが受けられんと言うふうにはおっしゃってない。だから御神誡の誡の字が違いますよね。十戒とか五戒という、あの戒、戒と言う字が違う。実に楽に楽に出来る。
 ですから、そこんところをです、楽に楽に出来るから、堕落の方へ行きやすい訳なんです。本当言うたら、教祖の神様の御信心と言うのは、積極的というよりも、もうひとつ、その上に超越した。命を掛けてお出でられるところの、言わば厳しさという様なものがあるのですけれども。とにかく、門外不出、外にも出らない。お導きにも行かないというような建前だもんですから、つい、そういう事になってしまうのです。
 と言うて、ほんなら、お道の信心の教祖の場合がです。「実意丁寧神信心」ということをお道の信心の命としておられますのですから、私共にとっても、やはり、そこは命を掛けてと言うような厳しい言い方はしなくても、そこを本当に、こうする事が本当だと言う事をです、実意を持って行うていくと言うところに焦点をおかして貰うて。おかげを頂いていかなければならん。
 椛目の場合でも、もう日ならずして教会なら教会というお許しが預けんのでございますから。それを待たせて預けば良いのですけれども。どうも椛目の人達はせっかちが、私を始め揃うておりますから。もうどうせ教会になるとじゃから、教会の看板あげたっちゃよかくさと言うような考え方がある。そういう考え方ではです実意をお上に立て貫かれたという教祖の信心には。やはりもとる事にもなるのでございます。
 どうぞ実意丁寧神信心というような事をです、そのような場合にでもそれを表していくのがお道の信心だというふうに思うのです。今朝からのお夢を頂いて私は成程こういう様な事で、今朝私がお夢を頂いたような事で、椛目はその為に苦労してきたという事実がいくつもあると言う事で御座います。そう言う所を今後失敗がないように、こりゃ銘々の上に於いても、そこんところをおかげ頂いていかなければならんと思うですね。
   どうぞ。